中里幸聖

インターネットが普及するまでは、監視社会の監視する側は、独裁者であれコンピューターであれ一極集中を想定していたと考えられる。しかし、インターネットが普及し、スマートフォンをはじめとする携帯型情報端末が一般化し、SNSで情報が拡散する現在、分散型の情報受発信が可能となった。「アラブの春」は、こうした情報通信技術の発達・普及がなければ、あのような形では発生しなかったとの指摘が多い。 では、『1984年』や『地球へ…』で描かれた監視社会への危惧は消滅したのであろうか。残念ながら、国家権力による監視社会はより巧妙になる可能性が高まっているように思われる。また、市井の人々同士による監視社会が生起し、同調圧力が強まっているのではないだろうか。GAFAに対する規制の議論は、独占の弊害への対処が第一だが、国家権力とは異なる存在による監視社会への警戒もあるであろう。 一方、情報受発信機能を個人が簡単に入手できるようになったことは、「アラブの春」などの国家権力に対抗する活動を以前より容易にしたが、人民裁判的な暴走を招きやすくなっているとも言える。『1984年』や『地球へ…』では、中央の統制された権力による監視が想定されていたが、現実には一般庶民同士の監視社会が現出しつつあるのかもしれない。日頃のネット上での炎上騒ぎやSNSなどを通じたいじめ等を見ていると、絵空事ではないような気がする。